アクセスマップ コース図
オートポリスのHPはこちら

ゼロヨンフェスティバルから見たオートポリスの変遷

☆日本オートポリスの誕生

バブル絶頂期の1990年、大分県上津江村に日本オーポリスが誕生。F-1誘致を目指したサーキットだけあって規模や豪華さもバブリーな物でした。しかしその分、会員代や走行代も半端じゃなく高額で、普通の人が気軽にサーキット走行を楽しむというレベルでは無かったと記憶しています。そんな状況では当初オートポリス側が目指していた収益が上がる筈もありませんでした。そんな時一般の人が参加できるイベントとして開催されたのがゼロヨンフェスティバルだったのです。

☆ゼロヨンフェスティバル開催

第1回大会が行われたのが1991年11月24日。”一般ライダー参加促進宣言”を謳い文句にメインストレートを使っての400mタイムトライアルレースが開催されました。噂の一流サーキットということで、エントラントも、また一般入場者もその豪華さに感心していました。ゼロヨンのメイン競技以外に0-40m三輪車レース、ゼロヨン参加車両によるコンクールデレガンス等も行われていました。この頃はまだスタート地点にはツリーは無く、最終コーナー側から1コーナーに向かって走っていました。1992年バブル期の投資が仇となりオートポリスが倒産するという噂がレース界に流れ、9月に破産。ゼロヨンフェスティバルも10月の第2戦をもって一旦終了となりました。

☆大分阿蘇レーシングパーク

倒産した日本オートポリスは、1993年大分阿蘇レーシングパークとして復活。ゼロヨンフェスティバルも第1戦を5月16日に開催しました。1994年8月の第2戦に初の夜間レース”ミッドナイトゼロヨン”を敢行。アメリカでも夜間にレースを行うこともあるので試みとしては良かったのですが、照明が足りずにエントラントからは前が見えない等の意見もあり、後にも先にもこの一回だけになりました。他にも人間ゼロヨン(実際にレースで使われる400mのコースを走る)なども行われ、倒産という最悪の状況から少しずつ活気を取り戻しつつあったサーキットにまたしても危機が訪れることに。1995年2度目の倒産。この時はここへ訪れることは2度と無いだろうなと思われていました。

☆上津江オートポリス

1996年ハザマ(株式会社間組)が上津江村へ大分阿蘇レーシングパークを無償譲渡したことにより、上津江オートポリスとしてみたび復活。そしてこのコースは現在に至っています。ゼロヨンフェスティバルはと言うと、1997年8月の第2戦からそれまで400mだったコースを1/4マイル(402.33m)として、他のコースとのタイムの比較が出来るようになりました。予選が当初2回だったのに対し、メイン競技以外のイベントを無くし予選3回に移行。エントラントの台数の変化に伴い、エントリークラスの統廃合が行われ、誰にでも入賞のチャンスがあるクラス作りがなされていきます。本当の意味での”一般ライダー参加促進宣言”が貫かれた数少ないレースイベントです。

☆そして

2005年上津江村は統合により無くなり、大分県日田市上津江町になります。そして2005年3月をもってオートポリスを手放すことが決定されました。
2005年4月よりオートバイメーカーのカワサキ所有サーキットとなり、我々の気になるところのゼロヨンは2005年にそれまで年3回開催だったのが2回になりましたが、2006年は元の3回開催に決定しました。サーキットの持ち主が変わってもこのイベントは変わらず続けて欲しいものです。